読み深め

お盆は、こわい日ではなく、思い出す日だった?──目連尊者の物語からたどるお盆の由来

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ぼんは、すこしこわいだとおもわれることがあります。

くなったひとかえってくる」——そうけば、不思議ふしぎ気持きもちになるのも当然とうぜんかもしれません。よるには提灯ちょうちんともり、怪談かいだんえる季節きせつでもあります。

けれど、おぼん本当ほんとうに「こわがるための」なのでしょうか。

ぼんはじまりには、仏教ぶっきょうつたわるひとつの物語ものがたりがあります。くるしんでいるははたすけようとした、目連尊者もくれんそんじゃというひと物語ものがたりです。


目連尊者もくれんそんじゃは、なぜははすくえなかったのか

目連尊者もくれんそんじゃは、お釈迦しゃかさまの弟子でしのひとりとつたえられているひとです。くなったははのことを、とても大切たいせつおもっていました。

ははいまどうしているのかりたいとおもった目連尊者もくれんそんじゃは、ははのゆくえをさがします。すると、はははとてもくるしい世界せかいにいることがわかりました。ものをほしがってもべられない——そんなくるしみのなかにいたとつたえられています。

目連尊者もくれんそんじゃは、もちろんははたすけたいとおもいました。けれど、自分じぶんひとりのちからでは、うまくたすけることができませんでした。

そこで目連尊者もくれんそんじゃは、お釈迦しゃかさまに相談そうだんします。お釈迦しゃかさまはこうおしえました。

たくさんのおぼうさんたちにものをそなえて、こころをこめてわせなさい。


なぜ、「ほかのひと」に、そなえるのか

ここが、この物語ものがたり大事だいじなところです。

目連尊者もくれんそんじゃは、最初さいしょ自分じぶんははたすけたいとおもっていました。それは、とても自然しぜん気持きもちです。けれど、たくさんのひと大切たいせつにする気持きもちをつと、それがははたすけることにつながっていく——お釈迦しゃかさまは、そうおしえたのです。

目連尊者もくれんそんじゃは、ははだけでなく、ほかのひとにもやさしくしました。そして、そのよいおこないによって、ははくるしみからすくわれたとつたえられています。

つまりこの物語ものがたりは、ただ「くなったひとかえってくる」というはなしではありません。大切たいせつひとおもすことが、いまきているひとへのやさしさにもつながるというはなしなのです。


ぼん風習ふうしゅうめられた意味いみ

くなったひとおもうことが、いまのやさしさにつながる。そうかんがえると、おぼんにまつわるさまざまな風習ふうしゅうかたも、すこわってきます。

ぼんには、家族かぞくあつまったり、おそなえをしたりします。提灯ちょうちんしたり、お墓参はかまいりをしたりすることもあります。それは、こわがらせるためではなく、わすれていないよ」とつたえるためなのかもしれません。

むか

むかは、かえってくるひとまよわないようにするかりだといわれています。「こっちだよ」とらせるです。だからおぼんは、こわがらせるではなく、っている気持きもちをあらわなのです。

きゅうりのうまと、なすのうし

きゅうりのうまには、はやかえってきてほしいという気持きもち。なすのうしには、ゆっくりかえってほしいという気持きもちがめられているといわれます。

そこにあるのは、「いたい」と「まだかえらないで」——ふたつの気持きもちです。

なつ怪談かいだん

なつ怪談かいだんおおいのも、ただひとをこわがらせるためだけではないのかもしれません。いなくなったひとおも気持きもちも、そこにはあるのかもしれない。

もうえないひとわすれてはいけない気持きもち。えないそうしたものを、むかしひと物語ものがたりにしてきたのです。


ぼんは、おも

ぼんは、くなったひとをこわがるではありません。大切たいせつひとおもして、そのおもいをいまのやさしさにつなげるなのだとおもいます。

こわいとおもっていたものも、意味いみると、すこちがってえてくるものです。

あなたは、おぼんに、だれのことをおもしますか。

かんがえられること
目連尊者もくれんそんじゃは、なぜひとりではははたすけられなかったのだろう ひとりのちから限界げんかいと、ひととのつながりの意味いみ
なぜ「ほかのひと」を大切たいせつにすることが、ははたすけることにつながったのだろう やさしさのひろがりかた
むかや、きゅうりのうま・なすのうしには、どんな気持きもちがめられているだろう いたい気持きもちと、はなれがたい気持きも
自分じぶんにとって、わすれたくないひとやことはなにだろう 自分じぶん自身じしんとのつながり