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『100万回生きたねこ』なぜ、ねこは最後に生き返らなかったのか

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『100万まん回かい生いきたねこ』のねこは、100万まん回かい死しんで、100万まん回かい生いきました。

それだけ聞きくと、とてもすごい力ちからを持もったねこに思おもえます。けれど、物語ものがたりを読よむと、ねこは長ながいあいだ幸しあわせそうには見みえません。

そして白しろいねこと出会であった最後さいごの一生いっしょうで、ねこは初はじめて泣なき、もう生いき返かえりませんでした。

なぜ、100万まん回かいも生いきたねこは、最後さいごに生いき返かえらなかったのでしょうか。

何なん度ども生いき返かえれたのに、ねこは泣なかなかった

ねこには、王おうさまや船乗ふなのり、手品てじな使づかいなど、たくさんの飼かい主ぬしがいました。飼かい主ぬしたちは、ねこが死しぬたびに泣なきます。

けれど、ねこは一いち度ども泣なきません。自分じぶんが死しぬことも、飼かい主ぬしが悲かなしむことも、ねこにとっては大おおきな出来事できごとではなかったようです。

ねこがいちばん好すきだったのは、自分じぶんでした。自分じぶん以外いがいのだれかを大切たいせつにすることがなかったから、失うしなうことの悲かなしさも知しらなかったのかもしれません。

「何なん度どでもやり直なおせる」人生じんせい

ねこは死しんでも、また別べつのねことして生うまれ変かわります。

だから、ねこにとって一ひとつひとつの人生じんせいは、終おわってしまったら取とり返かえしがつかないものではありませんでした。何なん度どでも次つぎがあるなら、今いまこのときを大切たいせつにする必要ひつようも、あまり感かんじなかったのかもしれません。

何なん度ども生いきられることは、自由じゆうで楽たのしいことにも見みえます。けれど、失うしなうものがなければ、心こころから大切たいせつにしたいものも生うまれにくいのかもしれません。

白しろいねこは、ねこを変かえようとしない

野良のらねこになったねこは、白しろいねこに出会であいます。ねこは、自分じぶんが100万まん回かい生いきたことを自慢じまんします。

けれど白しろいねこは、ねこをほめたり、おどろいたりしません。ただ「そう」と言いうだけです。

白しろいねこは、ねこに何なにかを教おしえようとしたわけでも、変かえようとしたわけでもありません。それでも、ねこは白しろいねこと一緒いっしょにいるうちに、初はじめて自分じぶん以外いがいの相手あいてを大切たいせつに思おもうようになります。

初はじめて泣ないたとき、ねこは本気ほんきで生いきていた

白しろいねこが死しんだとき、ねこは初はじめて泣なきます。

泣ないたのは、白しろいねこが自分じぶんにとって、取とりかえのつかない大切たいせつな存在そんざいになっていたからです。何なん度どでも生いき返かえれるねこにとっても、白しろいねこと過すごした時間じかんは、同おなじものをもう一度いちど手てに入いれられる時間じかんではありませんでした。

悲かなしさを知しることは、つらいことです。でも、悲かなしいと思おもえるほど大切たいせつにした相手あいてがいたことでもあります。

生いき返かえらなかったことは、終おわりだけを意味いみしない

白しろいねこのあと、ねこは静しずかに死しに、もう生いき返かえりません。

これは、ねこが何なにかを失うしなって終おわったというだけではないのかもしれません。100万まん回かいの人生じんせいでは、自分じぶんだけのために生いきていたねこが、最後さいごの一生いっしょうでは、だれかと一緒いっしょに生いきました。

何なん度どもやり直なおせる人生じんせいよりも、たった一いち度どでも、本気ほんきで好すきになり、本気ほんきで悲かなしむ人生じんせい。その一いち度どがあったから、ねこはもう生いき返かえる必要ひつようがなかった、と読よむこともできます。

考かんがえてみたい問とい

問とい 考かんがえる手てがかり
ねこは、なぜ100万まん回かいも生いき返かえれたのだろう? ねこが何なにを大切たいせつにしていたかを考かんがえる
白しろいねこは、どうしてねこを変かえられたのだろう? 白しろいねこがしたこと、しなかったことに注目ちゅうもくする
ねこが初はじめて泣ないたのは、どんな気持きもちからだろう? 泣なかなかった以前いぜんのねこと比くらべる
ねこが生いき返かえらなかったラストを、どう思おもう? 「終おわり」と「本当ほんとうに生いきること」を考かんがえる

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